義経記〜横浦島伝説〜

主な登場人物

  • 源義経: 悲運の英雄。その戦(いくさ)能力の高さとその人格ゆえに実の兄に命を狙われることとなる。現在、天草御所浦の地に隠れている。
  • 武蔵坊弁慶: 稀代(きたい)の忠臣。その類(たぐ)い希(まれ)なる武力で義経を補佐する。義経に最後まで従い、共に最後を迎える。”弁慶の立ち往生”はあまりにも有名。
  • 那須与一: 弓の名手。今回頼朝の命をうけ、義経討伐(とうばつ)の任につく。しかし、頼朝への忠義と義経への感情との間で揺れ動いている。
  • 横浦の長老: 義経をかくまっている島の長。鎌倉幕府との衝突を覚悟し、義経を保護する。
     


 壇ノ浦の戦いで平氏を破った源氏は、事実上日本の新たなる支配者となった。壇ノ浦の戦いで源氏を勝利に導いた源義経は英雄として、京の民に絶大なる歓迎を受けた。その人気は征夷大将軍である兄、源頼朝をしのぐものであったという。このことが後に悲劇となるのだが・・・。確かに義経は戦(いくさ)の天才であった。一ノ谷の合戦や屋島の合戦など当時誰も考えつかなかった方法によって、平氏を破っている。また人としても情に厚く、壇ノ浦の合戦時は、その人柄によって熊野水軍の協力を得、当時最強であったろう平氏水軍を破っている。ただ、戦場ではその能力を十分に発揮したといえる義経も政治力という点においては全くの無力であった。一人の人間としてみれば情に厚いという性格は長所となるも、政治の舞台においてはそれは情に脆(もろ)いという短所にしかならない。

 義経の情に脆(もろ)い面を端的(たんてき)に表している話はいくつか残っている。その一つを紹介してみよう。義経のもう一つの呼び名でもある判官(ほうがん)についての話である。その当時朝廷は後白河法王が強い影響力を持っており、この後白河法王が特に義経をかわいがった。その後白河法王が義経に判官という位を与えようとしたのだが、当時鎌倉幕府の許し、つまり頼朝の許しを得ずに朝廷から位をもらうことは固く禁じられていた。後白河法王の胸の内には力が強大化してきた頼朝の対抗馬として義経を味方に付けておこうという考えもあったのだが、政治に疎(うと)く、情に脆(もろ)い義経にはその後白河法皇の好意を断ることはできなかった。このことが頼朝にとって義経を討伐する口実となるのである。

 以上のようなことが重なって、義経の鎌倉での立場はだんだんと悪化していった。頼朝にとって自分より人気のあるものは邪魔以外なんでもない。それが血を分けた兄弟であろうとも・・・。頼朝のバックにつく北条家にとっても御輿(みこし)として担(かつ)ぐ頼朝以上の人気を誇る人物は決して存在してはいけないのである。義経には兄頼朝に対抗しようなどという気持ちは少しもなかったといわれている。ただ、この場合本人にその気がなくとも、対抗しうるだけの能力を持ったことが義経にとっての不幸だったのである。こうなると義経はどうしようもなく、弁慶を含む数人の家人を連れて、都を落ちるしかなかったのである。この後、追っ手をのがれての義経の逃避行が始まる。

 とここまでが平家物語の話である。平家物語ではこの後義経は西国にのがれようと港を出港するのだが、天にも見放されたのか途中嵐にあって結局都に戻ってしまう。ただここで想像力を働かせてみよう。本当に義経は途中嵐に遭って都に戻ったのか?もしかしたら九州まで逃れて、ここ天草御所浦まで逃げてこなかったのか?そして、義経追討軍として那須与一が御所浦に訪れなかったか?以上のように考えると京から遠いこの御所浦に源平合戦にかかわる地名がつくのも納得がいくのではなかろうか。また、そう考えると自分のふるさとにより一層の興味がわいてくるのではなかろうか?

© T.Ikemoto. Edited by H.K.&I.K.





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